麓空手道クラブの歴史
麓空手クラブは1973年(昭和48年)6月に正式に創設されました。創始者は津田智啓(つださとし)先生です。
鳥栖地区の和道会の始まりです。麓から鳥栖、旭、基山、北茂安、三根、中原・・と広がりました。
今まで多くの選手を送り出した名門空手道場です。
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創始者、津田智啓(つだ さとし)先生
1932年(昭和7年)1月1日生まれ
段位 八段
職業は国鉄で電車の運転手
1994年(平成6年)享年62歳
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設立当時
※津田先生を主として他は敬称省略します。
設立の キッカケは二人の青年が強くなりたいという願望から津田先生の自宅を訪問し、指導を願い出たことから始まります。突然の不審者の訪問に津田先生は「お断り」の返答でしたが、この二人は諦めることなく再度訪問し、その熱意で津田先生の庭先で練習を開始したのがキッカケです。その訪問したのが江頭青年と西原青年です。
近所のこどもも加わり庭先では手狭になったことから公共施設を借りることになるのですが、組織でない人に貸すことができないということで最初は「鳥栖空手クラブ」という名称でスタートしました。それが1973年(昭和48年)6月です。それから「鳥栖三養基地区空手道クラブ」となり、支部が多くなったので各地で地名の空手道クラブが設立されました。麓は「麓空手道クラブ」となりました。
エピソード
昭和49年の頃、練習帰りは毎日のように津田先生のお宅に寄り夜更けまで空手の話を仲間同士でしていました。津田先生もご家族も明日の仕事があるのに大変なご迷惑だったと思います。
ある日、仲間の一人がある道路でチカンが夜になると出るという情報を聞き、チカン退治をしようという話になりました。おとりに女性はキケンなので西原さんが女装するという案になり、西原さんが女装するのですがそれはそれは明るいところで見るとバケモノでしかありませんでした。しかし暗闇ということでいいのではないかと、で、暗闇をバケモノいや、女装した西原さんが歩き、私たち数名は離れた車の中で待機していました。小一時間・・誰も現れずそれで終われて幸いだったと思います。
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津田先生自宅庭で古瓦で試割り(固い) |
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恒例の餅つき |
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1975年(昭和50年)正月の稽古始め。 |
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三井グリーンランドへ旅行 |
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「正拳」発行
「正拳」は津田先生がガリ版で刷り生徒に配布していました。
今のようにパソコンで作りボタンひとつでプリンターで印刷というものではなく、ロウが塗られた用紙に針のような金属のペン先でガリガリと刻んで原紙に書き、手動のローラーでペンキのようなものを用紙に塗って作る大変な作業をされていました。途中から何人かで手分けしてされていましたがこちらが最後となっています。昭和49年1月から昭和57年8月号までご苦労さまでした。
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1974年(昭和49年)1月 正拳1号掲示は下記でした。
武道の根本は礼である。礼は相互愛に始まり相互愛は敬の心に発する。
天の道に背かず、地の利に逆らわず、人の道に悖(もと)らず天地人の理道に和すること。
この心がなくて空手を修行するなら気違いに刃物だ。と
宮川門下会 主席師範 宮川正
第一条 |
空手道は礼に始まり礼に終わること |
第二条 |
空手に先手なし |
第三条 |
空手は義の補(たす)け |
第四条 |
先ず自己を知れ、而(しか)して他を知れ |
第五条 |
技術より心術 |
第六条 |
心は放(はな)たん事を要す |
第七条 |
禍(わざわい)は懈怠(かいたい)に生ず |
第八条 |
道場のみの空手と思うな |
第九条 |
空手の修行は一生である |
第十条 |
あらゆるものを空手化せよそこに妙味(みょうみ)あり |
第十一条 |
空手は湯の如し絶えず熱度を與(あたえ)ざれば元の水に還る |
第十二条 |
勝つ考えはもつな負けぬ考えは必要 |
第十三条 |
敵に因って軟化せよ |
第十四条 |
戦(いくさ)は虚実の操縦如何(そうじゅういかん)に在り |
第十五条 |
人の手足を剣と思え |
第十六条 |
男子門を出づれば百万の敵あり |
第十七条 |
構えは初心者に後は自然体 |
第十八条 |
形は正しく実践は別物 |
第十九条 |
力の強弱、体の伸縮、技の緩急を忘れるな |
第二十条 |
常に思念工夫せよ |
武道は競技ではない。不撓(ふとう)の精神を練り金鉄の体躯(からだ)を鍛えることこそがその本旨である。
観覧席の喝采を予定するものではなく、即ち見物の目を相手とするものではなく、本当に直接自分自身の肉体と精神を錬磨するためのものである。
指導者育成の時代
多くの人が津田先生に習い指導者へと育っていきました。